日本の改革

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皇室を心から敬愛し、しかも陛下の写真を焼く作品も容認は出来る:即位の礼に寄せて

即位の礼に際し、天皇に関する制度の意味を考えます。皇室を敬愛することと、陛下の写真を焼く作品の存在を認めることは両立します。天皇の制度を支えているのは、一人一人の日本国民の心です。今後も、自由と民主主義を基本として、多様な価値観を認め合う立憲君主制が続くことを願い、そのような国と国民統合の象徴にふさわしい天皇陛下の即位を、心よりお祝い申し上げます。

日本国憲法での天皇の制度

今日、国内外からの代表ら約2000人を前に陛下が即位を宣明される「即位礼正殿の儀」が行われます。

一国民として、即位を心からお祝い申し上げます。また、海外からの祝意も有難く感じることです。

即位の礼の日に際して、日本の天皇に関する制度の意味について、あらためて考えてみます。

(以下、天皇陛下の呼称につき、一国民としての敬意をこめる場合は「陛下」、統治機構について論ずる場合は「天皇」と、大雑把に使い分けます)

日本の憲法は、第1条に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めています。

この条文は、主権は国民に存すると言っているのだから、国民主権、つまり民主主義を定めた条文だと言われています。

一方、憲法の冒頭、一番最初の条文に、第8条までの第1章全体と併せて、天皇に関する制度が定められていることは、やはり重い意味を持っています。

日本国憲法の三大原理は、基本的人権の尊重(自由主義)、国民主権(民主主義)、平和主義(国際協調主義)ですが、実はもう一つ、天皇に関する制度があることも、原理とまで言わなくとも、大きな特色をなしています。日本国憲法の三大原理と同様の原理が他の多くの国の憲法にもあることを考えれば、天皇に関する制度こそが、日本国憲法を他国の憲法と区別する最も大きな特色であるとさえ、言えるでしょう。

国内では、一人一人の国民は個人として尊重され、人格的平等と個人の自由が認められます。同様に、国際社会の中でも、主権国家にはそれぞれの国の個性が認められ、現実はともかく、建前上は国家主権は平等とされています。他国の主権を侵害せず、自由主義・民主主義という普遍的価値を守る限り、国内での統治形態も自由に選択できます。

つまり、天皇の制度は、国際社会で認められた主権の行使として、選び取られた制度、ということになります。実際、憲法第1条では、日本国民の総意が、その地位を認めているから天皇の地位は認められる、としています。

天皇制について、「日本国民の総意」が実際に投票で示されたことはありません。第1条はフィクションと言えばフィクションです。が、戦後一貫して、世論調査では天皇の制度に多くの国民は賛成し続けているので、憲法改正の必要性まで認められておらず、現在も議論の対象となっていないので、この日本独自の制度は続いています。

また、4条で天皇の政治的行為は明文で禁止されているし、人権保障規定があるし、99条で天皇憲法尊重擁護義務を負うから、自由主義、平和主義にも反しない、ということになります。

このように、天皇に関する制度が正当化される根拠は、日本国憲法の下では、徹頭徹尾、民主主義と自由主義です。

ではなぜ、主権者・国民はその総意で、日本国と国民統合の象徴として、天皇の地位を認めた、という条文に対し、多くの日本国民は反対を示さず、世論調査でも天皇の制度には賛成と続けているのか。

それは、一人一人の日本国民が、戦後の歴代の陛下の人柄にふれて、それぞれに敬愛の念を抱いているからです。日本国民がなぜ戦後歴代の陛下の人柄にふれて敬愛の念を感じたかと言えば、戦後の天皇は国民とともにあることを重んじて、積極的に国民とふれあう機会を持ち続けたからです。

また、日本国民が、現行の天皇制の運用程度であれば、天皇の地位に関わる神道の伝統や宗教的意味合いについては、十分に許容可能だと感じているのも、日本国民が天皇の制度を支持する重要な理由です。天皇に関する神道の伝統や宗教的意義の部分について、多くの日本国民が、生活上の儀礼の範囲での神道的な行事(正月行事や地域の祭り)を受け入れているのと同様、統治機構上の儀礼的・形式的行為について、特段問題を感じないことがほとんどだからです。

更に言えば、より積極的に、天皇の制度を支持する人達もたくさんいます。国民は自分の心の中に、多少の宗教色を含めて、様々な伝統を、一人一人がそれぞれの形で、持ち続けています。そのような国民の意思に、天皇の制度は支えられています。

以上をまとめると、天皇に関する制度は、他国との比較で言えば、日本の憲法統治機構の一番目立つ特色をなしています。それは日本国民が自ら選んだ、または容認しているものです。日本国民が天皇の制度を支持する理由は、戦後歴代の天皇陛下の人柄にふれた国民が自然と敬愛の念を抱いたからであり、現在の天皇の制度の運用を、自由や民主主義をおびやかすとまで感じない国民が多いからであり、自分の中にある伝統を大事にする気持ちから積極的に天皇の制度に賛成する国民も多いからです。

つまり、天皇の地位というのは結局、一人一人の国民の心にかかっています。

多様な価値観と人格的平等を認める立憲君主制

 以上より、天皇について最近議論になった二つの件につき、あらためて考えます。一つは即位の礼での儀式の合憲性、もう一つは、あいちトリエンナーレでの天皇陛下の写真を焼く作品の展示についてです。

まず、即位の礼での儀式についてです。

今日の即位の礼正殿の儀について、儀式の形式が戦前の天皇主権のように見えて憲法違反だ等の批判が、ほとんど力を得なかった理由も分かります。それは、政府の宣伝や隠蔽のためというより、国民自身が、一定の宗教色を帯びた儀式を容認しているからです。そこには、昭和天皇陛下や、平成の時代に上皇陛下が必死で追及してこられた、国民とともにある皇室が実現した結果でもあります。

信教の自由に関する違憲判断基準である目的・効果基準から言っても、憲法違反とまで判断はできないでしょう。

むしろ政治的効果としては、「天皇を大事にする総理」をアピールして、保守層の支持を得るということでしょうし、これは信教の自由それ自体とはあまり関係ないものです。

次に、あいちトリエンナーレでの、陛下の写真を焼き、踏みにじる作品を公立美術館で展示することの当否です。

この件で、展覧会で件の作品の公開を実現した愛知県知事が即位の礼に出席することに反対する声があります。反対するのは自由ですが、私は全く問題ないと思います。

日本国と日本国民の象徴である天皇の写真を焼いて、踏みにじる内容を含む動画を、公立図書館で展示することの適否については、そのような内容の適否によって判断すべきではありません。以前のブログでも書いた通り、その作品が第三者である芸術の専門家の判断で手続き的に認められるなら、そして、警備等のコストを考えて行政が適法に判断した以上は、どんな内容の作品であっても、公立施設で展示して構わないはずです。

政治家の言動は暴力を引き起こしかねない。あいちトリエンナーレに関する言動につき、松井一郎氏、河村たかし氏、吉村洋文氏に猛省を促す。 - 日本の改革

これを別の側面から、一人一人の国民の立場から考えてみます。

陛下や皇室を敬愛する国民は大変多く、その肖像画が燃やされ踏みつけられる作品があると聞けば、あるいはそんな作品があると聞けば、不愉快に思う人や、中には激怒して、公立施設での展示に反対の人も大勢出てきました。脅迫や暴行は論外で、これも以前のブログで繰り返し書いた通りですが、反対して激しく批判するのはもちろん自由です。皇室への敬愛の気持ち、尊崇の気持ちやその表明は、もちろん内心の自由表現の自由として、保護されなければいけません。

逆に、天皇も皇室も嫌いな人は、むしろ気分の良い作品だと感じるかもしれません。そういう人たちは、自分の皇室についての意見のゆえに、展示に賛成することもあるでしょう。むしろ、政治的プロパガンダとして、積極的にそれをやったのが、表現の不自由展実行委員会のメンバーだ、と言われています。

一方で、皇室を心から敬愛し、陛下の写真を焼いて踏みにじるような作品の存在には不快感を覚えたとしても、まともな手続きを経た以上はその作品の展示に賛成する、という立場も、当然あり得ます。私は、そのような立場です。

あの作品を作った大浦信行氏が、朝日新聞のインタビューに答えています。大浦氏はもともと、「遠近を抱えて」という作品を1980年代に作成、それは昭和天皇を主題にした全14枚のコラージュ作品で、古今東西の芸術作品や仏教図、人間の骨格、女性の裸体などの多様なイメージが天皇の肖像と組み合わされていました。これが展示された美術館に右翼等が抗議し、このため、展示は中止、図録まで焼却された、ということが、今回の作品の背景としてありました。

digital.asahi.com

 私は、例の動画については、全部をまだ見られていませんので判断を留保しますが、1980年代に作成されたというコラージュの一つについては、それなりに興味を感じました。なぜ天皇をモチーフにした作品を作ったかにつき、大浦氏は上のインタビューで、以下のように答えています。

「当時は芸術家を目指して米ニューヨークに住んでいて、アイデンティティーの不安に襲われました。自分とは何なのかと考え、裸になって僕自身の内面を見つめ直したとき、意識の奥底に『内なる天皇』がいると感じました。皮膚の毛穴の中にまで入り込み、意識の奥にあるものです。そうした自分自身の底にたゆたうもの、かつて自分の中を通り過ぎていったものなどの様々なイメージを組み合わせたのが『遠近を抱えて』です。つまり僕の自画像です」

朝日新聞2019年10月12日)

大浦氏の作品について、その芸術的価値を判断する力は私にはありませんが、私が大事だと思うのは、この「内なる天皇」という感覚です。

日本国民なら誰でも、「内なる天皇」を持っています。

どんな「内なる天皇」を持っているかは、一人一人の国民によって全く違います。

戦後歴代の陛下の努力によって、また、自分の「内なる伝統」によって、この「内なる天皇」に何らかの敬意なり尊崇なりに近いような感情を持っている国民が大変多いのが現状です。そして、そのように感じる国民がこれほど多いという事実が、政治的に日本独特の統治形態である天皇の制度を支えています。

一方で、「内なる天皇」に国民が抱く感情は、敬意や尊崇だけではありません。ポジティブな感情だけでなく、嫉妬や、冷笑や、場合によっては憎悪も、当然あります。更に、ポジティブでもネガティブでもない、単に不思議だ、謎めいている等の感覚を持つこともあるでしょう。天皇について、こうしたネガティブな感情も、ポジティブな感情も、それ以外の色々な感覚も、まぜこぜの形で持っているのが、多くの日本国民ではないでしょうか。大浦氏が「内なる天皇」を、雑多なイメージとともにコラージュで示したその手法は、それなりに普遍的な意味を持っています。

日本国民は、その内心にどのような「内なる天皇」を持ち、それにどのような感情を持つかは自由です。自由という以前に、当の本人にも、なぜそんな感じ方に至ったのか、よく分からないことも多いでしょう。いずれにせよ、天皇に対する感情、感覚は、その人の個性、人格の大切な一部分です。また、他人の権利を害しない限りそうした感情や、感情とも言えない何かを、社会に向けて表現することも自由です。それが日本の立憲君主制です。

我々がそれぞれに「内なる天皇」を抱え、それぞれの天皇像について自由闊達に議論して言論や作品等で表現を行い合う、それを通じて、何とはなしに全体として、日本国と国民が一つにまとまっている象徴としての天皇のあり方が自ずと形作られていくものです。

先に見た通り、天皇の地位は、結局は我々日本国民一人一人の心によって保障されているものです。私は、日本国と日本国民統合の象徴として、旗でもシンボルでも書物でも建築物でもなく、神道の伝統に支えられた家族や人間を選んだ、日本国憲法のあり方に賛成です。皮相な見方かもしれませんが、モノよりも人間を象徴とするのは、国として人間を大事にするように感じられるからです。そして、日本の天皇制、日本の立憲君主制が、これからも長く続いてほしいと思っています。

この制度が長く続くためには、天皇という象徴が、出来るだけ多くの国民の心に支えられている必要があります。そのためには、象徴としての天皇につき、多くの国民がお互いの「内なる天皇」の違いを認めたうえで議論し合える環境が必要です。それを通じて、出来るだけ多くの国民が、敬愛とまでいかなくとも、天皇や皇室に対して、何となく尊いような、敬うべきものらしいと感じられるような、少なくとも、まあ、これが日本の象徴でもしょうがないかな、と自然に感じられるようにしていくべきです。

天皇陛下も、皇后陛下も、そのような存在であるにふさわしい方々と感じています。両陛下とも、自由主義と民主主義の原理を十二分に身に付けられ、体現されており、多様な価値観を認められる方々であり、国際社会に向けても開かれた気持ちをお持ちの開明的な方々と感じます。天皇陛下が環境問題に知見を持たれ、強いご関心をお持ちなのも、大変嬉しく、心強く感じています。

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天皇の制度に素直に賛成できない、私とは異なる「内なる天皇」を持っている国民も多いことは認めつつ、そのような人々にとっても日本国と日本国民の象徴と認識されうるであろう天皇陛下の即位を、一国民として、心よりお祝い申し上げます。

令和の天皇陛下万歳