日本の改革

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天皇陛下+国民vs一部の神社関係者:神道には「宗教改革」が必要だ

立憲民主党の議員達が「みんなで伊勢神宮を参拝」して、炎上しているそうです。

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選挙の年だし、自民党等の「みんなで靖国神社を参拝する」の向こうを張って、保守層の票がちょっと欲しかったくらいのことでしょうけれど、あらためて、神社とは何ぞや、ということを考えさせられました。
端的に言えば、今の神社なんて、有難がって参拝するほどのものでしょうか?日本の「神道」それ自体に共感を覚える人こそ、現代日本の神社という「組織」には違和感を抱いていないでしょうか?

今回の要点

・昨年、靖国神社宮司天皇陛下の慰霊の旅に暴言を吐いて引責辞任。もう総理の靖国参拝など不要だと思います。

・今の神社本庁は政治や世俗的なイデオロギーに関わりすぎています。神道関係者は、政治から手を引いて、出来る限り、神道の本来の姿に立ち返るべきです。

天皇陛下+国民vs一部の神社関係者

昨年、天皇陛下の言動に国民は賛成、一部の神社関係者が反対、ということがありました。 靖国神社の前宮司の暴言と引責辞任です。

(以下、事実関係に関する記述は『選択』2018年11月号p110-113によっています)

www.sentaku.co.jp

靖国神社の前宮司の小堀邦夫氏が昨年10月、身内の会議で、以下のような発言をしました。

「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社をつぶそうとしてるんだよ。わかるか?(中略)今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか?」

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん?正論を潰せるだけの準備を陛下はずっとなさっている。」

「陛下がどこを慰霊の旅で訪れようが、そこに御霊はないだろう?遺骨はあっても。違う?」

この発言が録音されており、外部に漏洩したことを理由に、小堀氏は宮司を辞任。発言内容を取り消すつもりはないようです。

私にとって、この発言は本当に衝撃でした。私は小泉政権以降、日本の総理大臣は靖国神社に必ず毎年参拝すべきと思っていましたが、この発言で意見を変えました。慰霊の旅は、天皇陛下皇后陛下とともに、自らの個人的責任はないはずの戦争の惨禍について、国の象徴としての責任を負って、国の内外で大戦後の節目に行われてきました。広島、長崎、沖縄で戦没者を悼まれるお姿はもとより、サイパンの通称バンザイクリフに向かって、深々と頭を下げられるお姿は、国民の心を動かすものだったと思います。
www.kunaicho.go.jp

その慰霊の旅を、人もあろうに靖国神社宮司が悪しざまに批判し、「神道の理屈の上では死んだ場所に御霊はない。御霊があるのは我が靖国神社だ。天皇陛下は余計なことはせずに、黙って大人しくうちの神社を参拝しろ」と言わんばかりの罵詈雑言。

それが本当に神道の今の教義であり、教学上は慰霊の旅など無駄で靖国神社に参拝すべきと言うなら、そんな教義は国民にとって無用の長物です。こんな宮司が出るような今の靖国神社に、天皇陛下はもちろん、総理大臣も参拝する必要などありません。私の小泉純一郎氏への尊敬の念は変わりませんが、靖国参拝に関する自分のこだわりは、もう捨てることにしました。

今の神社は政治や世俗的なイデオロギーに関わりすぎています。神社関係者は、神道の原点に立ち返ってほしいです。

(以下、事実関係に関する記述は『FACTA』2018年11月号p88-89によっています)

facta.co.jp

靖国神社以外では、約8万の神社を傘下に持つ包括宗教法人神社本庁はどうでしょうか。周知の通り、こちらは、日本会議神道政治連盟の活動に深く関わり、神社本庁の田中恆清総長は、日本会議の副会長であり、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表発起人の一人です。

日本会議の運動の核になっているのが神社本庁で、地方の神社を通じて資金と人の両面で組織化に貢献したと言います。そのうえ、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」では、2016年の正月、初詣の際に全国の神社に署名簿を置いて、「憲法改正1千万人署名活動」を行ったそうです。以下で画像含め、まとめられてますね。

togetter.com

税制上の優遇措置を受ける宗教法人が堂々と政治活動をするのは、創価学会でなくとも腹が立ちます。第一、これ、神道と何か関係あるんですか?神社本庁の政治運動も、昔の元号法制化の運動くらいなら、まあ分からないでもないです(ただ今となっては、元号が法律上の制度となって公文書等で使われるのは、正直、国民にとっては不便ですが)。1997年に日本会議が出来て、その後、安倍晋三氏を担ぎ上げて憲法改正に本腰入れ始めたあたりから、神道とは関係のない偏狭な政治集団にどんどん変質してきたように見えます。

私は、どの宗教の信者というわけでもないのですが、ただ、神道のカミ概念には、共感を覚えるところがあります。神社のサイトから孫引きですが、本居宣長古事記伝の言葉です。

「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。」

www.izumo-murasakino.jp

世の常ならずすぐれたところのある畏きものなら、何でもかんでも神。昔、この言い方を神道関係のパンフレットか何かで読んで感動して、その後、小林秀雄の『本居宣長』を読んでやっぱり感動して、宗教というものの中では自分の実感に近いもののように思っていました。

ところが、今の神社組織を牛耳る連中は、こんな感覚とは無縁なように見えます。島田裕巳『神社崩壊』p199によれば、神は特別な存在であり、それにふさわしい権威ある存在として祀られるべきだ、という考え方自体が、明治の神仏分離以降のものだと言います。今では権威主義の弊害が大きすぎます。

www.amazon.co.jp

同書p201から更に引用します。

「神を祀るという行為は、権威主義に結びつく危険性を秘めている。「虎の威を借る狐」のごとく、神を祀る者が、それによって権威を獲得し、他の人間を従わせようとするからである」

日本の神社は、この危険が行き着くところまできたような存在に成り下がっていないでしょうか。同じ神を祀る人として、日本国民は天皇陛下という方を知っています(ここでは、天皇陛下をあくまで一人の人間として考えます)。神社という組織の中で位人身を極めたはずの小堀前靖国神社宮司神社本庁の田中恆清総長と、天皇陛下と、どちらの方が、あるべき神道を実践されているでしょうか?また、神道にも宗教にも興味のない人にとって、どちらの言動が、信頼に足りるものでしょうか?

かつてカトリック教会という組織が長い中世を通じて腐敗堕落したとき、ルターが現れました。日本の神道の世界からも、日本国民から本当に信頼されるような改革を成し遂げる人が現れることを願ってやみません。